ヤマカワラボラトリ

ことばとおんがくがすきなめんへらさん、ヤマカワの研究所。

00394_面倒くさいを考える

何かをやるのは面倒くさい。

無限に湧いてくる妄想が実現しないほとんどの理由は「面倒くさい」による挫折だと思う。

「面倒くさい」という理由付けは、真の理由付けを面倒くさがっているから出てくる言葉だと思う。言葉遊びだな。

というところで、もう少し「面倒くさい」を掘り下げてみたいと思います。めんどくせぇなぁ。

 

めんどくさいことを大きく二つに分けると「できないことをやろうとしているので面倒くさい」「できるけど面倒くさい」となるかと思います。

できるかできないかで分ける。

前者は新しい料理を覚えようとか、資格の勉強をしようとか、そういうやつ。

後者は風呂に入るとか、部屋を掃除するとかかな。

 

「できないからめんどくさい」を解決するには、まぁ「できるようになる」ことと「習慣化する」ことが大事なのだと思う。まずは一回やってみんと。それを繰り返してみんと、始まるもんも始まらん。

そのためにはゴールを決めて、そっちに向かってのスモールステップを作っていくわけだが、この作業もまた面倒くさい。何が必要なのかを考えなきゃならないし、この問いに「これだけできれば大丈夫!」と結論を出すのも、意外と難しいように思える。

いずれにせよ、できることから見切り発車して、必要なことを手あたり次第やっていく感じになるのだろうな。事前の計画は結構無力。

 

「できるけど面倒くさい」の解決は余計に難しい。「何が原因か」を考えなきゃいけないと思う。もっと自動化できないか考えたり。そもそも時間とか精神力が足りないからとか。何がそんなに心理的なハードルを上げているのか。環境なのか対人関係なのか。

 

ここまで考えていて、「要求水準が高い」というところがめんどくささの原因でもあるような気がしてきました。

良いもの、難しいもの、すごいことをしようとするから、そりゃあまぁ必要な手数は多くなる。時間も労力もかかる。

手っ取り早く面倒くささから逃げ出す方法は「要求水準を下げる」ということかもしれない。現状で満足するとか。風呂に入らなくてもとりあえずシャワーだけでいいか、とするとか、レンジでチンするだけの料理でOKにするとか。

 

「あれもこれもしたいのに面倒くさくてできない」という自己嫌悪に陥らないようにするために、多少要求水準を下げるのは必要だと思いました。

身の程を知るのだ、つまりはそういうことだ。

あれもこれもできたらそりゃあ素晴らしいけれど、現実そこまでするのは不可能なんだ。

非現実的な夢に悩んで自滅するの、あんまり良くない。

自分のペースで行けるところまで行けばいい。