ヤマカワラボラトリ

ことばとおんがくがすきなめんへらさん、ヤマカワの研究所。

00426_虚無の飾り立て

書くことねぇなぁ。書くことねぇんだよ。じゃあ書かなきゃいいじゃん。いやぁやっぱそれもさみしくてさ。

 

なんかちょっとでも、上記のような本当に無意味な短文でも、キーボードを叩いているとちょっと書き始めることができるような気がします。

 

そういえば、とある政治家さんの発言が「何かを言っている風だけど、何も言っていないよね」みたいな文脈で語られていますね。



あれ、結構私も良くやるやつだな、とか思ってしまった。

ハッキリと言えることっていうのが少ない局面だと、こういう無理やりチックな話法を使うことになってしまうんだ。

イントネーションつけたり間を作ったりしながら、ごく一般的なことを「すごいことをしているかのように」言う、みたいな。そういう会話をすること、結構ある。ごく普通の食材にめちゃくちゃ調味料をぶっかけているような、SNOWとかでコテコテに盛った写真を撮るような、そういう「0.1を1000にして語るような」ことを、よくやってしまう。

 

ブログの文章にしてもそうで、「中身がないなぁ」と思いながら日々虚無を書いているわけですが。今日の冒頭もまさしく虚無だしな。本当は伝えるべきものがあって、それを伝えるために文章だったり、会話だったりを紡いでいくことが正しいと思うのだが。

 

でもまぁ、そういう機能的・建設的なコミュニケーションだけではなくて、虚無的な非建設的なコミュニケーションにも効能はあるとも思う。

あまり情報伝達とかそういう系の意味を持たない言葉のやり取りでも、たとえば親近感を沸かせたり、感情を共有したり、そういう側面でいえば役割を持つとも思うのですよね。ある意味ちょう機能的。

 

ブログ、最初は「文章力の向上、文章執筆の習慣化」みたいな目的があったのだけど、最近はわりと惰性で続いていて、個人的な思考整理とか感情整理に使われてる。ちゃんと伝えるべきことのあること、伝える価値のあることを文章にまとめて書きたいなと言う気持ちはある。でも現状、そういうのはnoteとか別の場所で公開するにして、このブログは虚無的な文章を載せるところでいいのかもしれない。虚無は虚無で必要なのだ。必ずしも非機能的と言うわけではないのだ。

 

「語るべき何かを持ちたい」とかいう謎の希望。語るべきに続く言葉が「何か」という時点で、まぁお察しだよね、的なシニカルが顔をもたげる。人に伝えられるような経験とか、勉強とか、そういう中身がほとんどないと思う。統合失調症の体験もおおむね語りつくしてしまった。いや、まだあるっちゃあるけど、ちょっと気が引けるようなのばっかだし。

 

語るべきものを持ちたい、っていうの、人間としての核を持ちたい、みたいな感覚ともつながってるのかもしれない。私はこういう人間です。こういうことができます。こういう経験をしてきました。こう考えています。みたいな。そういうのを、意味あることを、歯切れよく語れる人になりたい。

 

空虚な言葉、空虚な内面。そういうのに辛さを感じつつ、少しでも中身のある人になりたいな。中身のある言葉を言いたいな。そんな風に思うのでした。