ヤマカワラボラトリ

ことばとおんがくがすきなめんへらさん、ヤマカワの研究所。

00515_相談しよう、そうしよう

相談しよう、そうしよう。

かごめかごめ。

……あれ、花いちもんめだっけ。忘れてしまった。

小さい子たちが集まって遊ぶあれ、あれにあるフレーズのノリ。

 

そういう軽い気持ちで相談ができるといいなぁと思う。

 

相談しないことのリスクを軽視しすぎている。

相談することのリスクを過大評価している。



秘密を伝えてしまうことへの恐怖。

他人を巻き込んでしまう恐怖、あるいは面倒くささ。

「悩んでいる」自分を見せてしまう怖さ。

「こんなことをしてしまった」と打ち明けるのに伴う怖さ。

「えっ……」と相手が自分との間に壁を作ってしまう瞬間の冷たさ。

 

信頼していない人にはそもそも話そうと思えず、

信頼している人には「話すことで嫌われたくない」と思って話せない。

 

結果、自分の中に抱え込んでしまう。

そんな風にずっとやってきている。

 

当然と言えば当然なのだが、基本的に悩んでいる問題は解決せず、苦しい時間が続くだけになる。

自分が音を上げて体調を崩すこともあれば、相手が諦めてなあなあで終わることもある。

 

誰かのために、とか、

こういう悪影響を懸念して、とか

要するに全部言い訳なんだよな。

 

もっとうまくやる方法があるなら本当に教えてほしい、本当にそういう解決を測りたい。

多分口頭で教わっても身につかないけれど。

何度か自分でやってみないと身につかないものなんだと思うなぁ。

 

相談ってどうやればいいのか。感情的になってしまってもいいのか。

結局その辺がインストールされていないんだなぁ。

もっとこの辺がうまくできれば、人生が違っていたかもしれないのに。

 

後悔する。

この後悔が建設的な感情にならずに、しばらくしたら忘れてしまい同じ失敗を繰り返すことになるであろうことが悔しい。

忘れっぽいんだ。特に悪いことは。忘れっぽいおかげで能天気に生きていられるんだと思う。

覚えておきたいことを、ずっと覚えていたい。

そのために、思い出していきたい。

相談しよう、そうしよう。

00514_脱皮

オンラインではよく脱皮してきたと思った。

よく考えたら、オフラインでも定期的に脱皮してきたと思う。

 

15年以上前に初めてハンドルネームを付けて以来、名前を何度か変えたり、複数の名前を並行して使ってきたりした。現在も並行しているアカウントがある。

 

Twitterのヤマカワアカウントを作ってから今年で5年になる。

気がついたら、もう結構長くヤマカワさんをやってきたなぁと思う。

 

前の名前、その前の名前、もっと前の……と思い返し、それぞれに思い出があるなと思う。

 

色んなアカウントを作って来たけれど、やっていることは大して変わらない。

インターネットポエム、なんていう話を前もしたように思う。

結局やっていることはずっとそれだと思う。所と名前は都度都度かわれど。

 

オフラインだってそうで。

中学校を卒業してリセット。

高校を卒業してリセット。

大学を卒業してリセット。

前職を退職して、現職に入って。

 

定期的にリセットがあった。そのたびに自分は脱皮をしてきたと思う。

自分の殻を捨て、新しい自分として生きていくというか。

色々なことを定期的に白紙にしてきた。

 

どうしてだろう、そういうものなのだろうか。

自分で振り返ると、「飽きたから」であったり「耐えられないから」であったりした。

ふわふわと、漂うように生きていると思う。

嫌なことがあったら逃げる、そういう姿勢を怠惰だと卑怯だと責める声が、自分の中からもする。

きっと目先の楽に飛びつくことで失っているものもたくさんあるのだと思う。

 

そろそろ脱皮する生き方もやめなければいけないと思っている。

変えられるのだろうか。不安はある。やっぱり。

またリセットして一からやろう、ということはあまりにも簡単そうに見え、あまりにも簡単に成功しそうだと思えてしまう。

 

逃げないで、前に向かって、上に向かって少しずつ積み上げていく。

そういう生き方にあこがれてきたはずだ。

今日も積み重ねていこう。

00513_正しい表現

自分にとって正しい表現、文面で認識しないと正しく行動できないと思う話。

 

昨日Twitterにも書いたのだけれど、

「恐れなくてもよい」という表現では自分にとっては足りないと思う。

自分は未知のものを過剰に恐れてしまいやすい傾向にあると思う。

「恐れてはいけない」という、禁止くらいの表現。そのくらい尖らないといけないのではないかと思う。

このあたりの感覚は本当に人それぞれだと思うので、あくまでも私の場合だけど。

 

自分にとって、「恐がり」だとか「怖れすぎる」だとか、そういう傾向が強いせいで、色々なことを他の人よりも損している。そんな風に思うことがある。

怖いもの、何がどう怖いのか、あんまり具体的に文章化したことはない。

結構しんどい作業だと思うけど。

 

否定される、笑われる、嫌われる、見下される。そういうのに人一倍弱い気がする。

疲れを感じやすい。気持ちに大きい波がある。

なぜなのか。変えられないものなのか。

すぐには変えられないとして、じゃあ自分は一体何をすればいいのか。

 

「何をすればいいのか」と考えすぎるのが間違い、ということさえ頭を過る。

何をすればいいのか、という正解や答えにこだわりすぎるのがよくないのだ、と。

不正解に厳しすぎる、結果チャレンジしなくなり、不正解を出すときには大きなものになってしまう。

そんな風に思うと、たしかにそうかもしれないという思いも湧く。



愚かでいいのだろう 此処がそう楽園さ

さよなら 蒼き日々よ

angelaShangri-La』より)



このフレーズには幾度となく励まされている。

歌詞全体の流れを見ると、自分とは真逆の解釈のように思えるけれど。

(「元々賢くなるべく理想郷を求めたけれど、今は愚かででも居る場所に留まる」という解釈)

 

自分なりの解釈だと。

正解でなければ行動しないような自分。

たとえ間違いであったり、愚かであっても行動した方がいいのではないか、と思う。

そういう文脈で「愚かでいいのだろう」という言葉を噛みしめる。

 

おろかってなんだろな。大げさな。

やってみたいことをやるのに、そんなに身構えなきゃいけないものかね。

 

00512_こだわり

こだわりが強い。

 

良く分からないことにこだわっている。そんな自覚がある。

 

そんなにこだわらなくてもいいのに、と思う。

 

自分が思っていることを言わず、場の流れに合わせることに照準を合わせすぎる、とか。

 

一方で、そこにこだわっているから手に出来ているものもある。

 

親しい人たちとのつながり、とか。




新型コロナに全く関係ないところで辛さを感じている。

何をどうあがいても報われない、解決しない、大きな壁を感じている。

考えること自体がもう負けだ。全てに否定的になる。

 

久しぶりにとってもネガティブな文章になっている。

今まで保っていたポジティブ、結局問題を先送りしていたから楽観していられただけにすぎない。

目を背けてきたことが、ついに逃げられなくなっただけだ。

何も不自然はない。



言いたいことが言えない。

問題の核心として、何度かこの言葉が過る。

言いたいことが言えない。

相手の言われることに洗脳されてしまうんだ。

相手と自分が思っていることが違っていても、「そうではなくて」と言えない。

伝えようとしても、伝わらない。たぶん伝え方が良くない。

「どっちかというと〇〇のような気がするんですが」とか弱気な表現とか不確か、不自然くらいの言い方しかしないから、伝わらないのかもしれない。

自分もよく考えたら、人がそういう表現してたら聞かないしな。

 

自分の不全感として「言いたいことが言えない」という表現で出てくるけれど、

自分が思ってるより、俺は自分のことを言っていて、周囲から見れば別に「他の人と同じくらいは意見言ってる」のかもしれない。

滑稽だ。

「自分の言うことだけ言い散らかして他人のいうことを聞こうともしない人間」そんな人間一番いやな相手だったはずだ。それに自分がなっていやしないかと不安になる。

そんな人間がどれだけ嫌われてきたか、本人がいない裏側でどれだけひどく言われているか。

そんな場面をうんざりするほど見てきた。

迷惑をかけるな。周囲の目からそういう思いを感じることもあれば、自分自身が周囲にそういう目を向けていたということもあると思う。後者の方が多いかもしれない。

 

対話って、結局できていないのではと感じ始めた。

一応うなずいて、相手のいうことを自分なりに解釈して言葉を変えて伝えて、自分の表現と相手の表現の違いの中で共通する部分を「合意」「同意」「正」として進めている。

どうもこれではだめらしい。このやり方だけでは辿り着けないところがあるらしい。

しんどいなぁ。極めてしんどい。じゃあどうすりゃあええねん、っちゅう話や。

「自分には理解しえない前提があるかもしれない」という前提に立って色々考えてみてるんだけど、結局どうすべきなのかもわからん。頭を過る案がいくつかあったところで、それらは可能性の一つに過ぎないし、取る選択肢としての決定打を持ちえないし、たいていは感情の波に流されて思い出すこともできない。その中に正解があったかもしれなくても。

 

「他人との対立を極端に避けるために、かえって他人の理解が浅い」という仮説について。

思いつく仮説はいつも妥当そうな雰囲気を醸し出している。

やっぱ人間こぶしを交えなきゃ、ケンカしなきゃ、言い合わなきゃ分かり合えねぇんだよ、何ていう考えも頭を過る。

親密になりたいゆえに対立を避けるが、対立を避けるために他人の理解が浅く、結果親密になれない。みたいな。

考えていて逆のような気がしてきて。対立を避けることの方が目的で、親密さをアピールしているのではないか。そんなの、結局理解を深められるはずなかろうな。

「深めたい」「深めたくない」の二択で言えば、「対立を避ける」が志向するのは「深めたくない」なんだよな。

結局自分が望んだとおりに、コミュニケーションを浅はかなままとしている。

自業自得。

自業自得。

自業自得。

 

自業自得みたいな思い、強いなぁ。

「現実らしさ」みたいなものを強く携えて自分を殴りに来るなと思う。

同じように現実らしさ持ってる表現に、「一見矛盾しているような表現」ってのがある。

「〇〇してるつもりが実は××だった」みたいなやつ。

ネット記事でもよく見る構文。

高校生のころ、英語の長文読解で「一般論と、それを否定する筆者の主張」なんて話をされていたことを思い出す。

 

愛してるつもりが愛ではなく、それが一番相手を虐待することだった。

 

みたいなやつさ。ポエムっぽい。ポエム脳。そうだね。そうだと思う。

こういう一文からさ、例えば「一見優しい言葉をかけているように見えるけれど、実はそれは本人を厳しい現実から隔離して、適応できなくさせている。本人の能力を奪うとか適応能力を奪う、要するに虐待なのだ」みたいな考えを読み取るとする。

こういう構文で言われると何となく真実性があるように思えてしまう。

結局さ、他のこともそうなんだけど「それらしい文法・構文」で言われていると信用しちゃうんだよな。エビデンスとかよりもさ。

どれが一番確からしいかを建設的に検討できない。くやしいなぁ。ああくやしい。

脳のキャパが足りんのか。いや、必要となるべき前提知識が多すぎて今の処理能力だと足りないだけに思える。必要な情報がインストールされていれば出来た処理かもしれない。そのインストールって、並々ならぬ時間がかかるもので、何十年単位の専門的な学びが必要なのかもしれないけど。

 

あぁ、そう。本来はすごく難しいはずのものをいとも簡単に「できそう」とか思ってしまうの本当にやめたいな。

誇大妄想なんだろうな。ありもしない全能感なんだろうな。

安直なんだよな。あぁしんどい。

 

安直だと自分を批判しつつ、なかなか行動に出ない自分も批判している。

思考は多動、行動は自閉。そんな感じか。

 

「この人のこういう所分かる」「この人は自分に似ている」みたいなのが誰に対しても湧きがちで、それはちょっと良くないレベルにまであると思う。

過剰に他人を自分と同一視しすぎている気がする。

簡単に他人を分かったつもりになるの、失礼だしやめた方がいいと思うんだよな。

自分で分かったつもりになってたら、誤解も多そうだし、そもそも話も深まらないだろうし。

 

結論だんだん出てきたんだけど、ちょっと電池が切れかかってきた。

ここまで書いてだいたい2500文字。

精神的に疲れた影響もあったので、「10000文字くらい呪詛を吐いてやるぞ」と思っていたけれど、蓋を開けてみたら4分の1くらいでガス欠だ。

2500文字、十分多いと思うけどね。

最初の10000文字っていう想定の方がおかしい気がする。

たいていやり始める前の想定がぶっ飛びすぎてることが多い。

 

だいたい40分で2600文字。分速650文字って所か。

加速したいなぁ。いや別にいいか。加速しても特に得るもんないかもな。

思ったことをグワッと書けるのにはあこがれもあるが、そもそも「グワッ」したくなるほどの感情を持たない方が幸せという気もしてくるな。

 

あぁ、夜が明けてきた。

言いたいことが言えない、という形で「言いたいこと」を話すのではなく「言いたいことが言えないということこと」を話してきたわけだけれど。

それでも少し落ち着くな。

形はどうあれ、エネルギーの行き場があることが必要なのかもしれない。

 

一心不乱に書きなぐって、最終的に具体的な誰かを批判する形ではなかったように記憶している。そういう形で書けたのは良かったと思う。「そんな甘い形しか書けないから世の中への理解も深まらないのだ」そんな声のリアリティは、今はそれほど大きくない。

 

結局、という風に雑な結論にしてしまうべきではないのだろうけど。

結局、気持ちが落ち着くことが大事なんだなぁ。

 

3000字にもなりましたし、ここまでにします。

ご清聴ありがとうございました。

00511_文章を書きたい欲

久しぶりに、また「文章を書きたい欲」みたいな感情がわいてきました。

今まで幾度となく湧いては消えを繰り返してきた感情です。

誇大妄想とセットになってやってきて、萎むときは卑小妄想を連れてくる、あれ。

 

今、比較的ニュートラルな気持ちでいられていると思うんですが、結局主観では判断が付かないのが妄想ということもあります。

本人としては正常な気持ちで取り組んでいることが、実は現実からとてもかけ離れている、そういうことは自身の経験としても実感しています。難しい。

かと言って「常識的に考えたらここでのふるまいはいかにすべきか」ばかり考え、それに従うばかりなのもどうなのかな、という思いもある。難しい。

 

妄想と常識を繰り返しながら生きていく。

今までもそんな風に生きてきたなと思います。

きっとこれからもそんな風に生きていくんだろうなとも思う。



日曜日にちょっと思い立ってスマホで文章を書いていました。

有料noteにして投稿するところまで妄想した。

まぁ誰も買わないとも思うけれど、なんかね。

「文章を書いてお金を稼ぐ」という所には未だに憧れがあります。

その厳しさを伝聞でしか知らないけど。知らないからこそ、安直にそう思ってしまうのかもしれないけど。

 

今している仕事もしっかりやっていきたい。

適性については正直疑問だし、「この仕事向いてない」っていう思いはどんなに振り切ろうとしても湧いてくるけれど、それでも意義のあることをしていると思いたいし、ここで身に着けた経験がこれから生きてくるとも思う。そのために努力したいとも思う。

 

ブログを書いたりとか音楽を作ったりとか、そういう創作的なことも続けていきたい。

どうしてもすぐ壁にぶつかって逃げてしまうけど、それを超えていきたいんだよな。

自分の天井勝手に決めないでさ。

しっかりやらないと、いつまでも夢見る子供もまま成長できないぞ、とも思うしね。

00510_いつもの

ストレスに気づけていないのではないか、という思い。

 

具体的に何かの不満があるのか、ということについてすぐには思い至らないんだけど。

気持ちに波ができることもある。誰にでもいつでも起こりうる規模の波、そういえばそうなんだけど。

謎の焦り、不安。そういうものはなかなか消えない。

時世のせいはあるだろう。直撃を受け大変な人たちに比べれば、まだマシだとも思う。

自宅での生活をよくするべく、改善も少しずつ進んでいる。

 

自分はどうしたいんだろう。

自分はどうするべきなんだろう。

 

いつまでも悩んでる場合じゃないな。

とっくに出すべき結論。何度も考えてきた問題。

その中である程度の輪郭はできてきている。

 

誘惑や恐怖を振り切れるかどうか。

そういうことが求められているんじゃないかな。

 

そろそろ、全切りするには惜しいものばかりになる。

何も積み上げてないわけじゃない。

ちょっとでも積んだものを積み続けていく生き方にシフトしたい。

 

もう、それほど新しいものを積んでいくわけにもいかない。

今あるスキルを磨いていくんだ。

売り先を見つけていくんだ。

そういう感じ。専門を磨きつつ、視野を広げる。

やることはたくさんある。今日もがんばろう。

00509_他人の気持ち

他人の気持ちはわからない。

周囲を配慮した行動を、と訴えられても、そうできない事情もあったりするし。

訴える側にだって、見た目以上に深い事情があったりするのだろうし。

 

あんまり具体的なことが書けないな。

こういう時世だから考えることは色々あるんだけど。

まぁ元々あまりハッキリ書くタイプではないしな。

人とコミュニケーションを取るときもそうだったりするし。

 

それなりに自己表出してるのに、「自分は控えめなタイプだ」と思い込んでる、みたいなことになってないかもちょっと懸念だな。

 

いやあんた、相当自己主張してるでしょ、なにいってんの。

みたいな事例、なくもないしね。

そういう人ほど被害的になってたりするしさ。

 

そんな風に思うからこそ、自分がそういう人になっていないかについて懐疑的になる。

客観的に「あなたは控えめなタイプですよ」と言われたとして、どうなんだろう。そんなこと求めてもどうしようもなくないか。

 

自己主張するのに、人から支えてもらわなきゃならない、と言うのはなんとも頼りない。

そんなに批判されるのが嫌かな。……いや、嫌だね。

何か言われるくらいなら、こちらからは何も言わない。

そんな風に生きてきている気がする。

対話をあきらめて先に土俵から降りてるのは、自分の方だと思う。

相手を見て、土俵に乗ることすらためらっているのは自分だと思う。

 

負けない試合をすることをためらっていたらさ。

できる試合がほとんどなくて。

結局主張する経験とか技術とか。

すり合わせる方法論とかさ。

そういうところが全然身につかないまま来ているように思う。

 

自分についての「無能力」という思い込み。

最近読んだ本の言葉を使えば、「スキーマ」なんだろうか。

「未履修」スキーマ、みたいな。そういうのは強いかもしれない。

他のみんなは経験して来ているのに、自分だけ置いていかれている。そういう事についての恐怖。

何とかして、肯定的なほうに持っていきたいなぁ。