00178_「死んではいけません」側の人間になるということ
どうしても、センセーショナルなことばかり言いたくなってしまう。
実際の自分はそんなことないのに。
色々なことを考え出して、まともな文章に出来ない気がしてきました。
めんへらは生きづらい。
でも、きっと「ふつう」にはなれない。
ふつうのふりをしてめんへらと関わり続けるめんへら。
「めんへら」か「ふつう」か。
そんなことにこだわりすぎる人は、「ふつう」にはなれない。
別に「ふつう」がそんなに偉いわけじゃない。
ぐるぐる考えすぎて、だんだん「ふつう」と「めんへら」の違いがよく分からなくなってきました。
そのまま、この二者択一へのこだわりをうまく捨てられたら。
「ふつう」になれるかもしれませんね。
「死んではいけません」は、「死ぬこと」を否定している言葉なんだけど。
まず前提として、言われた側は「死にたい」と思ったり言ったりしているはずなんですよね。
で、言われた側は「死ぬことが否定された」ではなくて、「自分が否定された」と思ってしまうんじゃないかと。
だから余計に辛くなってしまうんじゃないかと。
否定されてばかりの世の中で、苦しみぬいた末の結論ですら否定されるなんて、やっぱり死ぬしかなくない? なんて、思ってしまうんじゃないかと。
だからといって「死んでもいいよ」と言われたいかというと。
それは、「言われた側の肯定」になるかもしれないけど、同時に「死の肯定」にもなってしまう。
言う側は、それはしたくないわけで。
矛盾の解決として思い浮かんだのは
A「死にたい」
B「どうして死にたいの?」
A「怒られたくない、未来が暗い……etc」
B「なるほどね」
A「だから、死にたいの」
B「怒られなくなれば、死ななくても大丈夫じゃない?」
みたいに話をそらしていくこと。
死でなければ解決できない問題って、「生きることが辛いから」くらいのものでない限り、他の方法で解決できるんじゃないかな、って思います。
大きな欠点が2つあって「現実的に取れる解決策は限られる」「生きることはほぼ確実に辛い」なんですが、とりあえずおいておきましょう。
死にたい人を否定せずに、彼ら彼女らが生きることのできる方法を見つけたいです。
そうすることができれば、自分が「ふつう」になれる気がします。
贖罪にも、きっとなります。