00441_無駄なことは無駄だったのか
無駄なことは無駄だったのか。
例えば、病気になってしばらく休養して体調が整うまで時間が掛かってしまった。
それまでに費やした日々は無駄だったのか。
無駄じゃないと思いたい気持ちはある。
それで例えば体調を整える方法を身に付けたりだったり考え方を変え始めたり、なんて変化があり、それが自分の社会適応にとって有益だった、ということなら言えると思う。
しかし、体調が悪くならずに社会適応できればそれに越したことはないとも強く思う。
もっと調子が悪くなる前に人に相談するとか、病院にかかるとかしていれば、ここまでの損失を出さずに済んだとも思う。
あるいは、もっと人生の早い段階で自分の得意不得意について学んでいたり、社会適応のための振る舞いを身に着けていたり、価値と専門性のあるスキルを身に着けていたりすれば。
たらればは始めたら本当にきりがない。
目の前の日々を真剣に生きていくしかない。
過去が無駄だろうが有益だろうが、あまり大した問題ではなく、まずは目の前の今日をやり遂げる、ってことが必要なんだろうな。
たとえば、こんな風に、変に意識高く力みすぎた考え方が、体調の回復を阻害し社会適応を損ねているのだとしたら。そんな不安が走る。そんな不安ばかりだ。
頑張れば報われるという思いのもと、実は頑張っているからまったく報われないのだ、というような事態なんだったらどうしよう。力みすぎてはいいリズムも刻めない。やるべきことは力を抜くことなのに、無駄な力を込めているのでは? そして「まだ力が足りないからうまくいかない」と勘違いしているのでは?
そんな風に他人から見えていて、もしかしたら笑われたりしているんだろうか。
こんな風に考えると辛くなる。
ふと思ったのだけれど、どうして自分は悲観的なことを考えやすいのだろう。
そしてそれを人目に付くブログに上げたいなんて考えたんだろう。
前向きなほうがいい、ということは頭では分かっているつもりだし。
この文章を掲載せず、Delete Allすることだってたやすい。
それでも、なんでやろうな。
悲観的なことに向き合うのが「頑張る」って思いこんでるのかな。
たしかに自分にはそういう節がある。
でも、だとしたらそれは違うと思うんだよな。
頑張るって、苦痛を乗り越えることだけじゃない。
楽しむことを存分に深めていって、いつの間にか遠いところまで辿り着く。
そういうのが、いい「頑張り」じゃないのかなと思う。
なんか良く分からないまとめですけど。
あんまり人に迷惑を掛けず、できるなら楽しんでもらえるようなことをがんばりたいものですね。
せっかくなら、もっとたのしくしたいじゃないですか。楽しいことは好きですから。
そんな前向きな気持ちになれたのなら、駄文を連ねる時間も無駄ではないのかもしれんね。