ヤマカワラボラトリ

ことばとおんがくがすきなめんへらさん、ヤマカワの研究所。

00518_無数の前提とストレングス視点

背景、前提、文脈。言葉は何であれ、それに至った理由があるものだと思う。


車は左側通行です、但し日本では。みたいなことの「但し」以降の部分のように。


前提なく、手放しで言えることもあるのかもしれない。

でも、そういうことって、逆に抽象的過ぎてあまり意味のないことのように思える。

人は皆死ぬ、とかさ。時は過ぎる、とかさ。

 

いきなりこんなことを言い出す私にもやはりそれなりの文脈というか背景があるわけですが。


今日思い至ったことについて抽象的な要素を考え出してみると「こうすべき」と言われることにはその理由があるもの、だと言う感じ。


例えば、福祉の世界でよく言われる「ストレングス視点」と言うものについて。

クライエントの良いところに焦点を当てて考えよう、と言う風に理解しています。おおむね異論はない。1980年代のアメリカのソーシャルワークから生まれてきた概念、なんてのもググったら出てきました。そこまで覚えてなかった。


で、「おおむね異論はない」にもかかわらずこのテーマを取り上げた理由が、「ストレングス視点だけでもダメなのではないか」と言う風に思ったからです。

あるいは「安直にストレングス視点を語ってはいけない」とか「実はストレングス視点って物凄く難しいのでは」とか言い換えられるかもしれない。


前提を探ると言うことから考えれば、どうして「ストレングスに焦点を当てよう」と言うことを再考する必要があると思う。

クライエントとのラポール形成に有用とか、支援はどうしても短所に目が向きがちだから、とか。


なので、長所に焦点を当てましょう。

こんな風に書かれれば、納得は少し深まる。


一方で、自分がふと思ったのが。長所だけ見ていてもその人の苦痛解決されないよな、と言うこと。

明るく笑顔が素敵だけど買い物が自制できない人がいるとして、もちろんその長所を生かすように関わっては行くんだろうけど、生活上の課題を直視することを避けたら改善できないと思うんだよなぁ。


もちろん自分自身のストレングス視点と言うか、対人援助全般についての経験の浅さ、知識の乏しさが原因で理解に至っていない、と言うことはあると思うんだけど。

ストレングス視点、必ずしも手放しにクライエントを褒め称えると言う関わり方ではないんだろうし。


原則として言われていることも、特定の状況、特定のプロセスの中では不適切だったりするんだと思う。そう言う点まで含めての「個別化」なのか、バイスティックを紐解いてみたいところです。ちゃんと学ばねばなぁ。


思えば、特定の理論を都合よく組み合わせて、自分なりの言い訳を組み立てる癖があるようにも思う。これは仕事に限らず、人生全般に関して言えることだけど。

ちゃんと理屈の前提踏まえているか? と言うところは確認しなきゃだな。

カッコつけて言ってみたところで、結局言い訳してるだけなんだよ。