ヤマカワラボラトリ

ことばとおんがくがすきなめんへらさん、ヤマカワの研究所。

00536_精神的に安定

最近、というかもう少し古くなってしまったかもしれないけれど。

「精神的に安定している人をパートナーにすべき」

というような話題がTwitterでよく取り上げられたようでした。

 

そうだそうだ! という意見もあれば、

ずっと安定しているとは限らない、という意見もあり、考え方は様々だなと思います。

 

どちらの考え方の人も、「それらしく」話すのが上手で、つい「へぇそうなのか」と聞いてしまいそうになります。

自分の考えはどうなの? と聞かれたら「うぅん、難しいねぇ」となります。

 

まぁ、パートナー選びと言う大きなことについて、「精神的に安定」という漠然とした要素一つでは語り切れないというのも確かなんだろうなぁ。安定ってどうしていたら安定なのかも分からないしなぁ。

 

パートナー選びという話題とは少し離れてしまうかもしれないけれど、自分はできるだけ「精神的に安定すること」に重きを置いて行動してきたつもりです。かつて精神をハチャメチャにしてしまった自分、もう同じことはしないように。穏やかに穏やかに過ごそう。そんな風に考えて生きています。

 

しかし、悩むことは当然あって、精神的に安定しているかどうかと言うとまだまだ道半ば、とも思います。

そして今回のような話題が出てくると「精神的に安定させようとする自分の方針は果たして正しいか」という疑念も湧いてくるのです。

 

精神的な安定、なんて幻想だ。実現しないものだ。という意見。

精神的に安定しているように見える、というのはただ我慢しているだけだ。そういう人は本当に助けを求めるのが必要になっても声をあげられない。という意見。

 

そう言われてみるとそんな気もしてくる。自分の目指したものは何だったのだろうとセンチメンタルになる。

 

しかし、しかしだ。

仮に「精神的な安定」が幻想だとしても、それは必ずしも「精神的に不安定」な生き方を積極的に肯定するものにはならないんじゃないか。落差の大きい生き方は、単純にしんどい。年寄り臭い考えかもしれないけれども、日々を穏やかに過ごせたらそれが幸せだと思う。



もちろん、かと言って「マイルドな不幸感で安定している」という状況もやっぱりしんどいんだよな。双極性障害についての話題も最近出ていたけれど、多幸感、万能感を抑えつけた精神疾患というのはかなり辛く、そういった枷を自分にはめ続けて生きていくということは非常にしんどい。通院・服薬はもちろん必要なことではあるけれど、現状が完璧な正解かというとそうでもなくて、もっとQOLを上げる取り組みがあってもいいとは思う。

 

周りの人たちが普通にしていることができない自分とか、社会的な責任を果たせていない自分とか、自分を責めてくる声とか、そういうものとの折り合いをどうつけていくのか、自分の人生をどう位置づけていくのか。そういうのはずっと追い掛けるテーマになるんだろうなと思う。