キツイということは難しい。
自分は今きつい、ということを認めることがまず難しかったりする。
きついのって、一瞬で去ったりすることもあるし、人と話している刹那だけきつくない、ということもままある。
通院のときだけそんなにきつくないから「元気です(なので早く通院を終えたい)」みたいなリアクションをしたことがあるめんへらさんは結構多いんじゃないかと予想する。
そして、きついということを人に伝えるのはもっと大変だったりする。
人に伝えるのがきついからできるだけ認めたくない(本当は感じていても)みたいなこともあると思う。
心配されたときにアドバイスを聞かなきゃならないきつさ、
励まされたら元気を出したようにしなきゃならないきつさ、
要するに自分がきついにも関わらず、回りに合わせなきゃならなくなることがきついんだろう。
きついということがきつい理由がここにあるようにも思われるなぁ。
しかし、きついときこそしたくないこととか、正しいこととか、人に教えを乞うこととかが必要になるんだよな、ともよく思う。
調子よく自己流でやってて行き詰るからきつくなるわけで。
そしたらさ、自己流から変えていかんと状況変わらんよね? って思うわけです。
Twitterとかでは「アドバイスをするけれど全く聞かない他人」みたいなのがよく漫画にされているけど、自分もつまりそういう状況ってことよな。
第三者から見たらおかしいのは明白なのに、自分事となるとまったくもって冷静になれないものだ。
自分の場合は、きつさの一覧と対応策の一覧みたいなのを用意していた。
WRAP(Wellness Recovery Action Plan:元気回復行動プラン)を真似した感じのやつ。
最近あんまりこれを実践できていないなと感じる。
そういえば、最近感じた「ちょっと黄信号かも」くらいのサインとして、「会話が噛み合わないことが増える」ということがある。
自分にせよ相手にせよ、そこまで気を遣わなくていいコミュニケーションの中で考える時間が長くなるとか、リアクションが想定外とか、みたいな。それが一人相手じゃなく、別の相手とも起きる時、多分これは自分の調子に原因があるんだと思う。
こういうことを自分のWRAPに組み込んでいかんとな。
あとはやり忘れとか抜け漏れとか見落としとか。こういうのが増えてることで自覚なくともきつさが表面化してくるんだと思う。タスクを整理しないとなぁと思うところ。
自分の過去の経験を振り返ると、人に話しかけるのをためらう時間というのはめちゃくちゃ疲れるものだと感じる。
怒られるかもしれないからと先伸ばしたり、ていねいに伝えたいからと先伸ばしたり。
本当は今言わなきゃいけないんだけど勇気が出なくて声をかけられなかったり。
逃げられるうちはまだ楽かもしれないけど、逃げられなくなったときが一番苦しい。消耗するし、なかなか嫌な気分が抜けなくなる。
一番最初の仕事をしていた時、この時間がとても長かった。とても苦痛だった。
なので、「あの時と似ている」と感じると、早めに手を打たねばという危機意識も割とはやく働く。うまくなくてもいいんだ。とにかく声をかけろ。話はそれからだ。
こういう泥臭い感じのコミュニケーションを取りたいとき、抗不安薬は結構役に立つ。
抗不安薬ですぐにコミュニケーションが上達するわけではないが、抗不安薬を飲むことによって話しかけることについての抵抗感が薄れ、コミュニケーションが曲がりなりにも取れていく、そこで得られた情報とか経験から、少しずつ意思疎通が楽になっていく。そんな感じ。
発達障害の人が「薬はあくまでサポートで、経験して学習していくことが大事」みたいなことを言っていたと思うけれど、それと近い感覚かもしれない。
は~もっと楽にならんかな。でも楽になるとまた自分で詰め込んじまうからな。
意図的にバッファを作る。意図的にバッファを作る。
それは怠惰ではなく戦略的休息だし、というか常に戦略的であることは非現実的なので、気楽にする時間を大切にした方がいい。
なので、ジャズを聴きながらコーヒーを飲み、こんな文章を打っています。心地よい時間です。来週もまた生きていこう。