遅い時間にサラリーマンが帰ってきた。
隣の少し栄えた地方都市から山川町に帰ってきたその男の人は、他の多くの勤め人たちと同じように肩を落としてとぼとぼと歩いていた。
「お疲れさまです。何か大変なことでもあったのですか?」
筆者は何気なく声をかける。サラリーマンは一瞬驚いたような顔をした。
「あぁ、ヤマカワさんですか。大丈夫ですよ、いつものことです」
頼りなく笑みを返された。反射的に、筆者の口角も少し上がる。
反面、その瞬間には色々な解釈が筆者の頭をよぎった。
話をしたくないんだろうか。
話をするのも疲れてしまっているんだろうか。
本当に大丈夫なんだろうか。
本当は大丈夫じゃないのに、大丈夫と言わなければならないと思い込んでいやしないか。
いつも、こんな風にあまりにも信じられない「大丈夫」を言っているんだろうか。
どこまで聞いて良いのか、筆者にもうまく判別できずにいた。
サラリーマンはとぼとぼと歩く。筆者も同じ方向に歩く。
「ヤマカワさんの家、こっちじゃないでしょ?」
サラリーマンはそう言った。たぶん、特別な意味はない。
「もうちょっと、あなたと話がしたくて」
とりあえず、思いついたことを言った。虚を付かれたようで、サラリーマンは少し視線を泳がせた。
「ヤマカワさんも、疲れてるんですか?」
「えぇ、まぁ」
「お互い、大変ですねぇ」
「そうですね」
「なんでこんなに疲れるんですかねぇ、歳のせいですかねぇ」
「どうなんでしょうね。原因は色々ありそうですけど」
あまりうまく会話が繋げなくて、気まずい思いをしてしまう。
でもきっと、サラリーマンはそんな風には思っていないんだろうな、と少し思った。
「私もね、人目を気にしてむやみに消耗していた頃があったのだよ」
サラリーマンが自己語りを始めた。話題に困っていた筆者はこれ幸いと聞き役に徹した。
夢を見て育ってきた。夢を見て勉強し、夢を見て就職し、夢を見て働いてきた。これまでずっと、私を導いてくれたのは夢だったのだよ。でもね、夢はいつか覚めるって誰でも知っていることだろう? 夢ばかり見ていた私も覚めなければならない時が来てね。あの夢も叶わず、その夢も叶わず、大切にとっておいた最後の夢まで、叶わないとあきらめることになったんだ。夢を追いかけてたどり着いた場所は、叶わない夢を追いかけるために走り続けなければならない世界だったんだよ。目の前にぶら下げられたニンジンがなくなったのに、私はまだ走り続けなければいけないんだ。ふしぎなものでね、今まで走り続けることに慣れてしまってきたから、ニンジンが無くても走れてしまうんだ。走っているうちにまたニンジンが現れるかもしれないなんて、都合のいいこともかんがえてしまったりするんだよ。おかしな話だろう?
今では夢は叶わないと分かった。「叶わなかったら死んでやる」と覚悟して追っていたものだった。いざ現実に叶わないと分かると、死ぬ気は沸かないものだ。そんなもんかな。
具体的な部分を多くは語ってくれなかったけれど、サラリーマンは何かに納得して、けれども何かに納得できず、悩みながら生きているように見えた。それがきっと、疲れの原因なんだろうなと思った。
「特に何もできなくてすみません。私で良ければまた話を聞かせてください」
筆者が詫びると、先程と変わらない寂しい笑顔でサラリーマンは返事をしてくれた。
「はいはい。ありがとね。寒いし気をつけて帰りなよ」
手を振って闇に消えていくサラリーマンを見て、きっとみんな色々なことを語れず、色々なことを抱え込みながら歩いていくのだろうなと思った。