ヤマカワラボラトリ

ことばとおんがくがすきなめんへらさん、ヤマカワの研究所。

00532_交易地としての自分

相反する考え、矛盾する感情、散り散りの世界観。

そういったものの集合体としての自分。

 

色んな人や作品や考え方に触れて、つぎはぎで組み上げた自分こそオリジナルなのだなと感じます。

抽象的な話でしかないけれど。具体にはなかなか落とし込めていないけれど。

 

友人の言葉を借りれば「キメラレゴ」。

無差別にかきあつめたパーツを無作為に組み合わせた、良く分からない何か。

そんな感じかもしれない。自分、そんな感じかもしれない。

 

昔、「オリジナルとは何か」みたいなことについて考えていた時が合って、その時にでた一つの答がありました。

 

完全なオリジナルは存在しない。

だいたい、先にある何かを学んで人格も作品も構築されるし、過去のものと意図せずに重なることもありうる。

しかし、人格も作品も有機的なもので、色々な要素を組み合わせた存在である。

そして各々の要素のバランスという視点まで持てば、完全に一致するものはなかなかない。

配合のバランスと言うのが、その人やその作品のオリジナリティなのではないか。

 

みたいな考え。

今読んでいる本になぞらえれば、色んな人が集まる交易地、色んな人が集まって物品を交換している交易地。自分と言う場はそういうイメージなのではないかと思う。

その本によれば、交易がさかんになるほど都市・人類は「繁栄」するという。

 

自分ももっと多様なものを追い掛けて、多様な人に触れていって、自分と言う交易地を豊かにして行きたいと思うのでした。今更。

 

www.amazon.co.jp

 

00531_正しさと調和

頭では分かっているのだが、なかなか切り分けることができないことがある。

 

あなたの〇〇という考え方は違うと思う。

あなたのした××は良くないと思う。

 

ということが

 

あなたは間違っている。

あなたが悪い

 

そんな風に言われているように思ってしまう。

指摘を受けているのは自分の行動や考え方、つまり「一部」であり「人格全体」という訳ではない。

それなのに、自分がまるごと否定されているように思ってしまう。

 

そしてもっと良くないのは

「そんなことを言うなんてあなたは私の敵なのか」

というような思い込みがあることだと思う。

もちろん表立ってそういうことを言うわけではないし、時間が経てば気持ちも落ち着いて考えられるけれど。

 

むずかしいなぁ。

自分を良くするための建設的な指摘なのに、素直に聞くことができない。

あぁ、できないってことはなくて、できるだけ聞こうと心掛けてはいる。反論せず、時間を置いて反芻したりとか。

あぁ、でも「反論しない」に重きを置きすぎて、自分の考えとか言わないのが不満感たまる原因なのかな。

 

よくインターネットとかでできる性格診断系の質問で

 

「正しいこと」と「調和」のどちらを取るか聞かれたら、だいたい「調和」を取るようにしている。

 

相手の言うことを遮ってでも正しいと思うことをする、とか

正しいことよりも全員が納得することが大切だ、とか

 

そういうのを選びがち。

うん。そうなんだよな。

 

自分でちゃんと考えていないのかと思う。

自分の考えに自信が持てないとか、周囲任せにしているとか、そういうことは感じる。

 

自分が思うところをしっかり言語化したいなぁ。

結局自分の考えが言えないということは、誰かに突っ込まれたとき十分に反論できない、突っ込まれるのが怖いからだと思う。

綺麗でいよう、損しないようにしようとしすぎると、コミュニケーションの選択肢がかなり狭まってしまい、難しくなる。

もっと率直に話した方が、精神的には楽になるかもしれない。

00530_その優しさに価値はあるか

優しくありたいと思う。他人に比べれば今も割と優しいとも思う。

しかし、優しいのではなく「甘い」だけではないだろうか、とも思う。

必要な規律まで失していないだろうか。

「受け容れる」という大義を、反論しない言い訳として使っていないだろうか。

 

考えを深めていけば、ネガティブな側面の方が多いようにも思える。

本当の優しさじゃないんじゃないか、そんな考えも頭を過る。

 

また、仕事でのコミュニケーションと普段のコミュニケーションを一緒くたにして考えているのも良くないかもしれない。

仕事で求められることと、プライベートで求められることは、けっこう異なる。

「切り替えようとしても難しい」と判断して、いつも同じようなコミュニケーションを取ることにしているけれど、それも違うのかもしれない。

福祉の仕事、特にソーシャルワーカーは、コミュニケーションに意図的でなければならないと思う。

自分の都合で、それをおざなりにしていては、責任を果たしていないことになると思う。

 

もちろん、受容の重要性を軽んじるわけではない。

しかし、自分のコミュニケーションのあり方がこれで正しいとも思えない。

自分がすべきと思うコミュニケーションを取らないこと、その言い訳に受容を都合よく使ってはいけない。

 

ある程度自分が直感で感じた「こちらの方がいい」に従ってもいいんじゃないかなぁ。

うーん、でも「その根拠は」っていう問いにも答えられなきゃいけないしな。

 

そんなことを考えている間に、リアルタイムはどんどん進んでいく。

最善に向けて試行錯誤するしかないな。

00529_分かったふり

何のために生きてるんだろう、なんていう問いが頭を過ります。

きっとどんな答えをもらっても腑に落ちないんだろうな、と。分かったふりはするかもしれないけど。

 

分かったふり、というのはやってしまいがちで、分かっていないけど意識的に分かったふりをするときと、本当に分かっていると自分では思っているので強くうなずいたりするときとがあります。

 

自分では、その時は、分かったつもりでいても、一瞬のうちに忘れてしまう。

そんなことは本当に良くある。一瞬つながった思考がすぐに切れてしまう。そういうこともある。

 

そういうとき、普通の音声の会話だと後から追いかけられないからしんどいなと思う。

メモに残していても、うまく思い出せなかったりするさ。

 

忘れたくない、忘れてはいけないと強く思うことでも流れていってしまう。

不可抗力。疲れているときはよりそうなりやすい。

次第に覚えていようという意志すら失われる。辛いよね。

 

何度繰り返しても何度繰り返しても、同じミスを繰り返してしまう。

何が良くないんだろう。ちゃんとミスの原因を把握しているのか。ちゃんと原因に対応した対策を取っているのか。どちらも、言葉で言うよりもかなり難しい。

「自分にはもうこれは無理なんだ」と諦める方が先に来る。

それも仕方ないのかもしれない。

 

自分に苦手とかできないことがある一方で、それでも人生を生きてゆかねばならぬ。

克服したり、避けて通ったり、それなりに社会に適応していかなければならない。

00528_すでにあつい

すでに暑い。

6月上旬という意味でもそうだし、午前7時という意味でもそう。

 

暑い。

エアコン付けたいなぁ。

 

そういえば、「エアコンをためらわずに付けることができるのは豊かさ」という事を最近思っておりまして、noteの「ゆたかさってなんだろう」コンテストに投稿したいなぁなんて思っていました。12日までかぁ。間に合うかなぁ書けるかなぁ。

 

良いものを書こうとするとどうしても時間がかかったり色んな案を考えて悩んだりしてしまう。

意外とこのブログみたいに、重く考えずにさらっと書いた方がいいのかもしれない。

読んでいても面白いものになるのかもしれない。

 

あっちぃなぁ。

暑いのにホットコーヒーを飲んでる。そりゃさらに暑くなる。

 

エアコンが付けられるってのは、経済的に余裕があるってこと。

もちろんそれが部屋に設置されているということ。

実家に住んでいた時は自分の部屋にエアコンがなかったので夏は辛かった記憶がある。

 

豊かさについて、詳しくはnoteでまとめたいと思うんだけど、案をまとめる意味でちょっと書いてみると。



住みやすい家。音、温度、臭いなどが不快でないこと。健康なこと。安定した収入。関わりやすい人との関係。将来性。



なんとも月並みなことしか思い浮かばんなぁ。やはりこう、オリジナリティに欠けるな。

そんなこと言ってるとそもそも表現ができんぞ、という感じもあるんだけど。

 

あぁ、でも「結局一般論はある程度正しいのだ」ということは思うなぁ。

豊かさについての考え方だけではなく、今まで、他のことでもちょっと考えていたこと。

「アンチ常識」というスタンスを、特に若いころには持っていたように思うのだけれど、「よく言われることにはそれ相応の理由があるのだ」という気持ちも強くなっている。

もちろん「ある程度」であって、もっと正していく余地がまったくない、とは思わないけれど。

 

歯切れよく、オリジナリティのある考え方を、堂々と述べることへのあこがれはあるけれど、自分には難しそうだなぁ。「バランスを考える」というお題目のもと、ちまちましたことをごにょごにょと言うことくらいしかできなさそうだ。まぁそれも自分らしさなのかな。

00527_積み上げるなんてできるのか

「積み上げる」と言うことに過剰に期待していたのではないか、と振り返っている。

 

経験を積み上げる

知識を積み上げる

貯金を積み上げる

技術を積み上げる

 

などなど。

これを積み上げればいいことがある、新しい世界が見られる、生活が変わる、的な。

 

思えば、随分と短絡的な、楽観的な想定だったと思う。

経験したことも忘れてしまうし、積んだ知識も覚えてないし。

貯金もなかなかたまらんな。技術は明確化してないのでそもそも積みあがっているのかどうか分からない。

 

「とりあえずやる」と言うのは何とかできるかもしれないけど、そこから学べるものってなかなか定着しない。体系化したり自分の中で位置づけたりする時間をかけることが必要な気がしている。ただ経験するだけじゃなくて、振り返って言語化したり体系化することでようやく積みあがるものなんだろう。

 

ずいぶん手間と時間がかかり、その割に得られるものの少ない世界だなと感じる。

バイトしてた頃に誰かが言っていた「責任者になっても時給なんてほとんど増えないし、責任ばかり増える」という言葉を思い出す。

 

これはきっと、色んな所で言えることなんだと思う。

主観的には、投じる労力の割に得られる見返りというのはとても少なく感じるものなんだと思う。大変なんだよ、成果の見えにくいことを長期間続けていくのってさ。

 

もちろん、だからこそしっかり積み上げた人の知識や経験や技術は価値のあるものだと思う。

他の人にはできないことができる、というのはまさにそういう積み重ねの上に成り立つんだろう。プロフェッショナルの仕事を、甘く考えてはいけないと思う。

 

「もしかしたらこんなこともできるんじゃない?」と軽率に考えてしまう自分の軽さが、そのまま仕事を始め人生の諸々についての考え方・向き合い方の甘さを示しているように思える。プロフェッショナルが当たり前のようにやっていることは、意志と時間と労力を懸けた上に成り立っているものなのだ。甘く考えてはいかん。

 

では、自分は何を積むんだろう。

自分にとって分かること、人に伝えられること、できれば汎用性のあること、やり続けていて苦でないこと、そんなことで何かあればいいなと思う。

 

そういえば、最近昔書いた文章が出てきて、だいぶ恥ずかしい気持ちになったんだけど。

こうした昔書いた文章も、もしかしたら「積み重ね」なのかもしれない。

書いて書いて、いずれ振り返ることのできるものを積み重ねていく、っていうことならできるのかもしれない。

恥ずかしいけど、削除せずに取っておこうと思う。いずれ財産になるかもしれん。

00526_マニュアルにしたがえ

マニュアルにしたがえ、という話。

 

毎朝の楽しみになっている、ドリップコーヒーを淹れる時間。

今までの習慣として「おいしいコーヒーをたくさん飲みたい」という気持ちがあり、お湯を4回とか5回とか、マグカップ一杯になるまで注いでおりました。

おいしいコーヒー、たくさん飲みたい。量とかそういう分かりやすいものをどんどん増やしてしまいがち。

そうやって注いでも、まぁコーヒーはおおむねおいしく「でももうちょっと濃い方が好きだなぁ」とか思ったりしながら飲んでいました。

 

それを今朝、何となく「指示通り3回まで注ぐので止めてみるか」と思い立ちました。

気まぐれです、別にたくさん注ぐのにこだわりがあるわけでもない。

いつものマグカップの半分くらいまでしかお湯は注がれませんでした。

 

しかし、思っていた以上に味が違う。

物足りなく感じていた味の濃さも、割と濃く感じ、どちらかと言えば「こっちのがおいしいな」と感じる出来になっておりました。

 

やっぱり指示通り、マニュアル通りやるのが一番良いのだ、という感想になりました。

 

コーヒーのみならず、いろんなところでマニュアルを読まない、あるいは読んでも勝手に逸脱する、ということをやってしまいがちです。私の悪い癖です。

しっかり勉強するタイプに見えるかもしれないけど、やってみないと学びとして身体に定着しないパターンの人間。なかなか難しいことをがんばって考えるのは苦手な人間です。

教科書を読みながら頭に入れるより、問題集を繰り返し説いて、リズム感で問題が解けるように身に着ける、と言うやり方をしている人間です。

 

勉強、全然できなくなったなぁ。大学受験のころの長時間勉強が嘘のように、今は読書にしてもワークにしても体力も意志も続かない。もちろん全てがあの頃のようにはいかない。周囲も勉強に向かっている環境で、良い講師に課金し、1年限りと分かっていたあの期間と比べるのはあまりにもナンセンスだ。まだ若かったし希望も大きかった。

 

マニュアルってのは先人の知恵であり、それが自分に合うとは限らないけれど、それを正しく吸収するというのは自分にとってもかなりパフォーマンスが良いことなんだと思う。料理本を読まなければ、品目に応じて火力を調節するという基本さえ自分では気づかなかったのだ。知の積み上げというのはそういうことで、他人の学びから自分の行動であったり考え方であったりを変えることだと考える。

 

なんて文章を書いている間に、コーヒーがだいぶ冷めてしまい、味が変わってしまった。ちょっと酸っぱすぎるかな。きっと飲み方にも作法があるんだろう。ゆっくり少なく淹れたコーヒーを、ゆっくり味わいながら温かいうちに飲み切る。そういうのが求められているのかもしれない。

 

パッケージのマニュアルに書いていないこういうこと、冷める前に飲み切る、みたいなことに気が付くことを、「コツをつかむ」と言うのだろうなと思う。前提すぎることであったり、細かすぎることは、説明から省かれることも多い。でも、意外とその前提を見落としたまま積み上げようとしても、それはうまくいかないどころか逆効果になってしまう、そんなこともよくある。なので「このマニュアルの言うとおりにして大丈夫か、なにか見落としはないか」「結局自分のやりたいようにやるのが一番ではないか」なんて思いにもなってしまうのだけれど。前提の見落としを怖れすぎて何もしないと言うのは自分にとっても損になると思う。やっていくうちに「あっ、これってこういうことが前提にあったのだな」と気づいて行くんだと思う。自分が人にものを伝える時には、できるだけこの「前提」を伝えるようにしたいと思う。冗長になりすぎてしまわないよう気をつけねば、だけどね。