ヤマカワラボラトリ

ことばとおんがくがすきなめんへらさん、ヤマカワの研究所。

00556_くれ

KURE5-56ってありますよね。それ連想しただけのタイトルです。

さび落としだったか。実家にいたころ自転車のさび落としで使った記憶がある。

 

くれくれ言ってないで自分から取りに行くことが必要だよね、というお説教みたいなことを思い浮かべたりもしましたが、自分が欲しいものを正確に思い浮かべるって難しいことだなとも思うのです。

 

お腹がすいて困っている人が、食べ物を買うためのお金が欲しいとして。

「お金をくれ」という発言につながる。

そこでお金を渡してみたら、食べ物買う前に他のものを買ってしまいお金が無くなってしまい、結局当初の「空腹」という困りごとが解決しない、みたいな。

そうしたらまずこの人は「食べ物をくれ」と要求すべきだったのかもしれない。

 

こういうこと、生活の中ではよく起こる気がする。

 

寂しさを埋めるための恋人。

「恋人がほしい」と言う理由は「寂しさを埋めたいから」。だとしたら、解決は「恋人」でなくても良いかもしれない。

 

肩書として必要な就職。

「働きたい」という理由が「周囲に認めてもらいたいから」。だとしたら、ただ就職しただけでは解決しないかもしれない。



根っこにあるニーズは何で、その解決の手段としてはどれが正しいのか。

結構生々しくて、不純で、情けない感情と向き合わなければならない作業だと思う。

 

それをやっていくのが、問題解決なんだろうなと思う。



そういえば、一手で何でも解決しようとしすぎるの良くないのかも、とも最近思う。

パートナーに妻も嫁も母も求めるみたいなやつ、さ。

通話も決済も撮影もスマホならできるけどさ、特に人間に過大な役割持たせようとしすぎるのやめた方がいいよね。

「何かあったらこの人に頼る」は、「この人」の負担が大きくなってしまうし、その人を失ったときの自分のダメージも大きくなるじゃん。

そしたら「何かあったら」を細分化して、「家族とのいざこざで何かあったらこの人」「職場でのあれこれを相談するのはこの人」みたいにして行った方がいいと思う。

依存先を増やす、というのはまさにこれだよな。

あと、頼る関係はしっかりと手入れをする。これを怠ったらあかんな。

人の間で生きていくのは簡単なことではない。でもそれをやらねばな。

00555_ゴーゴーゴー!

555ですね。ゴーゴーゴーです。

ただそれだけの話です。うん、今日はそれだけの話しかしないようにしよう。変に抽象化したりとか悟った感じのこと言わないようにしよう。無理だな、絶対言うなぁ。

 

そういえば昔、「力の限りゴーゴゴー」っていうテレビ番組がやってました。

面白かったです。今でもたまにやっている「ハモネプ」のスタートになったのはこの番組なんですよね。

ちょっとしたアカペラブームにもなっていました。懐かしいなぁ。

ボイパとか練習したなぁ。割と楽しかった。

 

面白そうな流行りものに全力でベットして先行者利益を取る、と言うのは私の人生の中で何度か成功してきたものでもありました。次流行りそうなものには早めに手を付ける。

 

協調性は実はそんなになくて、自分勝手に好きなことをしている方が生産性は高かったりもする。

集中力を強く発揮できるときって、だいたい「おもしろそう!」ってギアがスピード上げてる時だもんな。このモードに入れないと突き抜けるのは難しい。まぁ、通常運転の質を高めるのももちろん必要なんだけど。

 

器用貧乏的な性質、ある程度まで伸びるのは早いけど、そこから先にはなかなか突き抜けられない、という自分の性質を考えると、「とにかく色んなものに手を出して幅を持たせ、親和性のある色んな領域を作る」というのが最適戦略のように思う。

 

良くも悪くも中途半端なんだと思う。職人になるには執念が足りない。美学が足りない。

その執念のなさや美学の薄さはきっと、対人衝突の可能性を減らす可能性を高める。

 

職人ではないが、対人折衝の専門性は磨いていきたい。

仕事にも通じることだしね。

00554_素直になる練習

もっと思ったことをストレートに言うべきなのかもしれない、と感じる出来事があった。

率直に伝えなかったからうまくいかなかった、問題になっている。

そう感じることがあった。


周りくどくないと言うことは価値だし。

わかりやすいと言うのは価値。


誤解を恐れすぎる、嫌われることを恐れすぎる。

そんな感じだろうか。


健全にコミュニケーションをとることができていれば必然的に生じるはずの衝突がない。

それはつまり健全なコミュニケーションでなく、抑圧されたそれである。


衝突を恐れない。

うまくぶつかるためには、下手なぶつかりを何度もやって練習しないと出来るようにならない。


好きなものを好きと言う。

いやなものを嫌という。

そう言うシンプルさを取り戻したい。

00553_相談と解決

相談は誰にどのようにすべきか。

色んな悩みを抱える人がいて、解決したい気持ちは切実だと思う。


「夜眠れない」は、精神科医でいいと思う。

眠剤の処方とかで解決もできると思う。


「辛いので話を聞いて欲しい」

これは「どんな話か」によって相談先を選ぶよね。

自分は何に悩んでいるのか、それは明確にした方が相談される方も話しやすいと思う。


色々な悩みを思い浮かべてみて、公的なサービスで悩み相談、と言うよりは、身近な友人とか家族とかに相談した方がいいのでは、と言う気持ちになってきた。


「友達とうまくやれない」とか

「恋人ができない」とか

「給料が少なくて生活が苦しい」とか


パッと思いつく相談したいことって、身近で解決した方が良さそうなことが多い。


しかし、人に相談するのって、私にとってはとてもハードルが高い。

「あいつ、こんなことで悩んでるのか」って見下されるような気がして恥ずかしい。

「あの人、こんなことで悩んでるんだって」って噂されそうな気がして恥ずかしい。

相談には何かと「恥ずかしい」と言う感情がついて回るように思う。

本当は悩みを抱え続けて、ずっと苦しんでいる方が恥ずかしい状況なのに。

どうして言えないんだろう。言って解決できないのが辛いのか。

00552_怒りについて

今日もTwitterでは怒りが溢れている。

新型コロナウイルス感染症に関連した怒りはもうずっと前から続いている。

最近では、ミュージシャンの優生思想を窺わせるツイートに多くの怒りが書き込まれた。


なるほど、確かにおかしいな、と思うこともあれば。

別にそこまで怒らなくても、と思うこともある。


ちょっと怒る方を宥めるようなことを思うと、

「怒るべきことにちゃんと声をあげないのはおかしい」

「問題を真剣に考えていない」

と言う声が聞こえてきそうだ。


「この問題、発言するほどしっかり調べたり考えたりできていない。なので発言を控える」と言う選択肢を、いろんな問題で取ってきている。


別にそんなに深刻に考えなくてもいいのかもしれない。

発言しないことで、かえって対話のスキルが培われていない気もする。


Twitterでのやりとり、あんまり建設的にできるものだとは思っていなかったんだけど、相手とコミュニケーションの仕方によってはある程度成り立ちうるものなのかもしれないな。


最初から対話を諦めてしまうのはもったいない気もする。

しかし、対話をするのであれば、それ相応の情報収集とか、論の構築とかをしないといかんよね。

意見を持つには、それ相応の情報量を持っていないといかん。それは間違いじゃない。


結局、今まで何事にも無関心だったんだろうなと思う。

発言するに値するだけの関心、持ってなかったもんな。

今でも「そんなに怒らんでも」と言う気持ちは結構つよい。


「怒ること」について、自分が過剰に考えすぎている、と言うのはあると思う。

自分の考えだと、声を荒げるほど怒る時って、対象を壊したりとか殴りかかったりとか、そう言うのも厭わないレベルでの感情の発露だと思っていたんだけど、そうでもないのかもしれない。

相手が正しくて自分が間違っていると思ったら謝るとか、そのくらいのレベルでも怒ってもいいのかもしれない。

 

「怒ること」って具体的にどう言うことかと言うと、多分言葉・表現が強いことが大きいと思う。

「そんなこと言うんじゃねぇよバカ」よりは「そこまで言わなくてもいいんじゃないかと私は思います」の方が怒り感は低いし「もう少しマイルドな言い方でもいいかもしれませんね」とかなら怒り感は低くなる。


結局、感情のぶつかり合いが苦手なんだなと思う。

自分自身抱えている感情は大きい方だと思う。感情的になると見失うこと、結構多い。だから普段から感情的になりすぎないよう気を付けている。

でも、そこまで気を付けなくてもいいのかもしれない。

いきなり120%開放じゃなくて、60%くらいずつオープンにしていくことを身に付けないといけないなと思う。オープン、クローズの二択しかなくて、結局クローズしっぱなして息苦しい、そんな現状にあるからだ。


自分は他人の感情を、実際以上に大きく見積もってしまう傾向にあると思う。

相手、別に言うほど怒っているわけじゃないかもしれない。

怒っているからと言って、完全に感情を閉じたり対話の余地がなかったりするわけじゃないかもしれない。

別に怒っていても、そんなに騒ぐほどのことじゃないのかもしれない。

怒っていることを気にしすぎる。これは自分の悪い癖だと思う。

直したい。


自分自身も、怒っている時の振る舞いをもう少し見直したいな。

結構完全に閉ざしてしまいがちだから。

怒鳴らないようにと思うとあんまり冷静に考えられなくなるから。


対話には出来る限り誠実でありたいよ。

00551_ポケモンとTwitterをやめたい

最近、ポケモンばっかりやってる。ランクバトルやるけど全然勝てず負けてばかりでかえってストレスがたまってしまう。

Twitterも最近ちょっと雰囲気がとげとげしくなっていて見ていて疲れることも増えてきた。

 

やめたいなぁ。

なのにどうしてやめられないんだろうなぁ。

 

立派な依存なんだと思う。

 

しかし、「もっと建設的なことに時間を使え。運動とか勉強とか創作とか」みたいな観念が強すぎるんじゃないか、とも思う。

 

健康に長生きしたいんだろ、金を稼ぎたいんだろ、良い作品作りたいんだろ。

そうならそれ相応の努力をしろよ。

 

そんな思いだ。バランスの問題はあるにせよ、間違ってはいない。

強すぎるなら弱めた方がいいと思うけどね。

 

喚いても自分は結局自分なので、できることからやるしかないが。

 

適度に間隔を開ける、できる時はできるけど。

依存っぽくなると、かえって止めるのが難しい。

一度やめちゃえばしばらく辞められるんだけどな。

 

「ちょっとくらいやってもいいじゃないか」

と思ったが

「そういう所からまた依存が始まる」

とか思い

「そんな風に過度に目くじら立てることの方が問題」

とか思い、今日も脳内は忙しい。

 

「脳内がうるさいのは悪いことなのか?」

と、新しい問いが浮かんだ。

悪くないのかもしれない。これもまた生き方か。

んー、でも考えがブレがちなのは何とかしたいなぁ。

整理しよう。やるべきこととか。

 

ポケモンで対戦勝てるようになる、とかもまぁなりたい姿といえばそうかもしれないけどね。

「ゲームなんてくだらない」みたいな思いはやっぱりあるのかもしれない。

情報収集して、PDCA回して、スキルアップしていく。みたいな経験にするのであれば、全然役立つとも思うし、単純に楽しさで元気になれるみたいなのもあると思うし。

00550_どんなスキルでも磨いていけばそれなりに役に立つんだと思う

具体的なスキルではなくて、根本的な生き方とかの話になるのかもしれない。

何をやってもうまくいかないとか、だいたいなんでもうまくやれるとか、色んな人がいると思う。

自分はどうかと言うと「おおむね覚えるのは早いが、天井に当たってから壁を突き破るのがとても苦手」みたいな感じだと思っている。

細かく言えば最初から全然できなかったこともあるけどね。リフティングとか。

サッカー本当に苦手。大人になってやる機会なくて本当に良かった。

 

あと、長期間没頭するとかが苦手。

一日に長時間やるのも無理。飽きっぽい。どんなに好きなことでも一日中は無理。

 

そう考えると、ある程度やりたいことを並列で進める方が自分には合っているかもしれない。

まとまった時間を取らないと身につかないこともあるから難しいけどなぁ。

 

生活のルーチンの中に組み込めばできるようになることも多い。

継続は力なりだ。